(着替え…
いや、無理。今は帰らなきゃ)
家を出た瞬間、
涙が溢れ出した。
歩きながら必死に堪えるが、
止まらない。
途中、量販店に立ち寄り、
替えの下着だけは購入した。
レジで会計をする時、
店員の視線が気になった。
涙で目が赤くなっているのに
気づいたのだろう。
私は慌てて目を拭った。
店を出て、どうやって兄の家に
戻ったのか覚えていない。
気づけば、兄のアパートの前に
立っていた。
(どうしよう…兄さんに
話すべき?いや、まだ…)
扉の前で立ち尽くす私。
手が震えて、鍵を差し込むのも
一苦労だった。
兄
「おかえり。
随分遅かったな。
どうした?顔色悪いぞ」
私
「そう?大丈夫!
ちょっと疲れただけだよ」
嘘をつく自分の声が、
どこか遠くで
響いているように聞こえた。
頭の中は真っ白で、
これからどうすればいいのか、
まったく考えられない。
兄の家で夕食の支度を
していると、
スマートフォンが震えた。
夫からのLINEだ。
画面を見つめる手が、
少し震えている。
夫
「義兄さんの様子はどう?
何か必要な物とかある?」
普段と変わらない文面。
まるで数時間前の出来事など
無かったかのような、
何気ない言葉に背筋が凍る。
(どうして…
平然としていられるの?)
深呼吸をして、返信を打つ。
私
「脳には影響ないみたい。
ホッとしたけど…利き腕を
骨折しちゃったの。
完治までしばらくかかるって。
慣れるまで身の回りの世話を
することになるから、
しばらくの間、
パートもこっちから通うわ。」
送信ボタンを押した後、
すぐに返信が来た。
夫
「了解。義兄さんに
お大事にって伝えてくれ。
俺も近日中に
お見舞いに行くから。
あ!お前の着替えとか諸々、
持って行ってやろうか?」
その言葉に、
胸が締め付けられる。
つい先ほど
目にした光景が蘇る。
家に帰りたくない。
夫の顔を見たくない。
でも、兄の事故のことで頭が
いっぱいで、
今はそれどころじゃない。
そんな本心は
押し殺して返信する。
私
「大丈夫。明日、
休みを取ったから家に寄って
荷物取ってくよ。
イサムはこっちのことは
心配しないで。おやすみ」
スマホを置いて、
深く息を吐き出す。
頭の中が
ぐるぐると回り始めた。
(どうして
平然としていられるの?
もしかして…
ヒトシは許したっていうの?)
ヒトシの
優しい性格を思い出す。
彼なら
許してしまうかもしれない。
でも、それでいいの?
あんな姿で…
何があったかなんて
想像がつくのに…
(私だって被害者。それなのに
私を抜きにして話を
つけようとしているの?)
怒りと悲しみが混ざり合う。
台所に立ったまま、
涙がこぼれ落ちる。
兄
「キヌ子、どうした?
具合でも悪いのか?」
ハッとして顔を上げると、
兄が心配そうに見ていた。
私
「ううん、大丈夫。
ちょっと疲れただけだよ」
兄
「無理するなよ。
俺のことは心配しなくていい」
私
「うん…ありがとう」
優しい兄の言葉に、
また涙が溢れそうになる。
でも、まだ話す勇気が出ない。
夕食の準備に戻りながら、
明日家に戻った時のことを考える。
夫と向き合わなきゃだし、
ヒトシとミキにも
会う必要があるかもしれない。
どうすればいいの…
答えは出ないまま、明日への
不安と、今夜乗り越えなければ
ならない時間。
それらが
重くのしかかってくる。